縁起と沿革

宝地院の縁起

求菩提山 宝地院
修験-歴史遺産の継承

当院は、京都の聖護院門跡を本山とする末寺として開院の際、求菩提山の鬼門封じの寺として歴史のある「如法寺 宝地院」より継承し、「宝地院」を名乗るよう授けられました。現在、当院は聖護院門跡の末寺から離れ、「求菩提山 宝地院」として、古来より連綿と伝えられた求菩提山に伝わる山岳修験の伝統を守りつつ現在に至っております。

近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の二つに分かれましたが、聖護院はこのうち「本山派」の中心寺院でありました。そして1872年(明治5年)の修験道廃止令の発布の際には天台寺門宗に所属しておりましたが、1946年(昭和21年)、修験宗を設立(本山修験宗の設立は1957年)して天台寺門宗から独立しています。

天台宗寺門宗とは、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で、円仁と円珍によってふたつに分かれた二派(山門派・寺門派)のうち三井寺に入った寺門派のことで、顕密一致の宗旨に修験道が加わるという特質があります。求菩提山は、明応3(1494)、熊野三山検校で聖護院門跡であった三宮道興法親王 道興准后の入山によって聖護院に所属しました。

また、当院では、各地での御法話参加者の増大にともなって、九州(行橋)、東京、名古屋、大阪へ各本院を構え、法話や講習会などを定期的に行ない、九州本院では開院当初より、「六峰会修験本坊」として連綿と続く山岳修験を守り続けております。1987年には120年ぶりに求菩提山峰入修行を復興し、春峰、秋峰、寒行、断食籠行、盂蘭盆会、星供養会などの年中行事も、全国から多くの方々のご参加を受け毎年続けてまいりました。
現在、祈願・供養の作法、星供養会、盂蘭盆会を行い、山岳修験の形式を伝承する「五日間断食籠行」は開院当初より途切れることなく初冬に行なわれております。各種の寺院行事には、全国から大勢の方々のご参加をいただき、山岳修験の伝統を古来のままに守り続けております。

 

求菩提山

日本が、まさにひとつの国家として産声をあげようとしたころ、余命を悟った天皇が、内裏にひとりの僧を招き入れました。日本書紀に「豊国法師」とされるこの僧は、特別な呪術の技をもった当時では超一級の豊前の僧の集団のことをさしているといわれています。豊前とは、現在の福岡県北東部から大分県北部までの一帯をさします。現在の大分県宇佐市の宇佐八幡神宮を中心として栄えていた渡来人たちの文化圏が、大陸との交流を経て発展を遂げていました。一説には、この地域は秦一族が多く移り住んだ「秦王国」とも称されます。渡来文化との強い絆が、豪族の力関係を左右していた歴史的背景をふまえると、豊国法師が参内したことは、天皇自らが仏教という渡来文化を積極的に受け入れようとした点で特出した事件です。

この時、内裏に招き入れられた僧の個人名も、また用明天皇にどのようなことを命ぜられたのかも記録には残されておりません。病気平癒の祈祷であったか、悪霊退散の呪術であったか、または、天皇の身体に直接触れてお加持をする「玉躰加持」であったかもしれません。また、次の天皇を決めるときには宇佐八幡神宮の御神託を受けていたという天皇家の伝統があったように、余命を悟った用明天皇が、次の天皇について憂慮されていた可能性も否定できないでしょう。
豊国法師参内に積極的であった聖徳太子が、用明天皇の子どもであったことを考えたとしても、仏教が伝来したばかりの日本において、ひとりの僧が内裏に招かれたこと自体が特殊中の特殊な待遇です。だからこそ、日本書紀をはじめ多くの文献に記録され、またそのことが、豊国法師の力とこの事件の大きさを物語っているのではないでしょうか。

磐余の河上に御新嘗す。是の日に、天皇、得病ひたまひて、宮に還入します。群臣待り。天皇、群臣にして詔して白はく。「朕、三宝に帰らむと思ふ。等議れ」とのたまふ。群臣、入朝て、議る。物部守屋大連と中臣勝海連と、詔の議に違ひて日さく。「何ぞ国神を背きて、他神を敬びむ。由来、斯の若き事を識らず」とまうす。蘇我馬子宿大臣、日さく。「詔に随ひて助け奉るべし。誰か異なる計を生さむ」とまうす。是に、皇弟皇子、豊国法師名を闕せりを引て、内裏に入る。物部守屋大連、邪睨みて大きに怒る。
「日本書紀」 用明天皇二年四月二日条

病気になった用明天皇の詔によって、穴穂部皇子と蘇我馬子が内裏に豊国法師を入れ、物部守屋と中臣勝海が強く反対した様子が、「物部守屋大連、邪睨みて大きに怒る」と表現され、一触即発の緊張感を感じさせます。
この時、日本の神を奉斎する廃仏派の物部氏と、崇仏派の蘇我氏は神仏の宗教戦争と権力闘争を引き起こしていました。用明天皇の病気平癒に豊国法師が参内するこの場面は、皇位継承や政権、また宗教問題が絡み合い、どちらが主導権を得るかによって日本の将来が大きく変わる緊急事態です。用明天皇の崩御は、用明天皇2年4月9日(587年5月21日)ですが、これは豊国法師の入内から五日後のことですから、この時がいかに重要な場面であったかを図り知ることができます。

また、この時、「三宝(仏・法・僧)に帰依する」として豊国法師(豊国奇巫の伝統を受け継ぐ法師団)を招請することを決めたのは天皇自身ですが、それに対しては、子である聖徳太子の強い働きかけもありました。しかし、いかに政治的圧力や策略があったとしても、用明天皇が豊国法師の高い医術レベルへの信頼と期待を持っていなくては、天皇自らが内裏にまで招き入れるはずはありません。

当時、豊国法師の技術が、既存の医術と違っていたところは、石薬を用いたところであるといわれます。この石薬とは鉱物質の仙薬のことで、「豊前国風土記」によると、香春(秦王国)には「龍骨(石灰岩もしくは獣骨化石)」が出ると記録されています。それは、薬草を用いていた既存の日本の医術とは全く異なり、石薬を用い巫術的な要素をあわせた最新医学でした。

豊国法師が石薬を用いた医療技術者であるということ、また、卓越した呪術的能力と技術をもっていたという点を考えても、それらの技術の中には、21世紀の近代医学では解決することができない問題へも、何らかの手がかりを有しているのではないかとも思えるのです。

「金丹を得ずして但だ草木の薬を服する、及び小術を修むるのみの者は、
ただ以て延ばし死を遅らすべきのみ。仙を得ざるなり」
「抱朴子」葛洪284~363

― 金丹(上薬中の上薬)を用いず、ただ草木の薬を飲んだり、小さい術のみの者は、
命を延ばし、死を遅らせるのみで、仙人の命を得ることはできない。 ―

この鉱物を採掘した〝香春(かわら)〟には、現在も石灰石の採掘が行なわれている香春岳がありますが、かつて、このあたりから搬出された銅は、東大寺の大仏建立にも多く使われ、宇佐神宮に奉納する銅鏡を代々鋳造したという記録が残されています。

筑豊炭鉱で栄えたこともあるこの地方は、地下資源の豊富さに支えられて栄えてきました。有名な「炭坑節」に「ひと山 ふた山 三山越え」と歌われた三つの山も、石灰石の採掘のために削られて今は容貌を変え、往時の栄華は想像することも困難ですが、2000年以上も昔に、遠い中国大陸や朝鮮半島から、渡ってきた人々が、九州の内陸にある地下資源を活用する能力と技術を持ち込み、求菩提山の銅板法華経や、東大寺の大仏様といった宗教的にも大変貴重な出来事に関わってきたことも、この地域の渡来人たちの技術の確かさを物語っています。

日本は、海をわたってきた多くの民族の影響を受けてきました。日本の各地に残された「徐福伝説」も、渡来文化の伝承に関わる言い伝えです。徐福は秦の始皇帝の命を受け、3000人もの人を連れて、〝不老不死〟の薬を探しに日本へ渡ってきたものの、各地に永住して技術や文化を伝え、その子孫は、「秦」(はた)を名乗り、秦一族として日本の文化の礎となっていったと言われます。伝承に残る〝徐福〟の行動は断定できなくとも、渡来の文化が、日本の各地方に影響を与えてきたことは間違いないでしょう。
日本史では、日本への仏教伝来は、538年のこととされていますが、紀元前にはすでに、秦(中国)の国から対島海流や黒潮に乗って渡ってきた中国大陸からの渡来人の影響を受けながら、新羅や百済など朝鮮半島からの文化も、海上ルートよりもたらされたことが分かります。

 

中山寺建立

用明天皇の子どもである聖徳太子は、真言宗中山寺派大本山(紫雲山中山寺:現 宝塚市)の開山にあたり、百済よりの渡来僧である惠便(えびん)、惠聰(えそう)を呼びました。『紫雲山中山寺記』には、十一面観音を本尊として、渡来僧が開山の作法をした様子が書かれています。

 

〈 紫雲山中山寺記 〉

太子、時に年十四歳なり、翌年、太子 法興寺を作る。
守屋の臣生を代へたりと雖も鬼魔と變じて障害を爲す所に御本所より乾の方に當り紫雲の氣の立つあり。是ぞ天の告ぐる所と、紫の雲こそなびけ行きて見む吾孫子の嶺に神ぞましますと宣ひ吾孫子の嶽に上り給ひしは、太子十六歳の御時なり、紫雲山 忍熊大明神に詣でられ應神天皇の納め給ひし、尺有二寸の金銅の匣を岩屋の邊より掘出し奉り、地主の大明神、天照皇太神を拝し給ひ、諸神に祈り奉りて鬼魔を鎮め、長卒塔婆を紫雲山の艮に立て、天には三密金剛の羅網を張り、地には五部瑜伽の智水を注ぎ、利生掲焉の結界にして三點字形に御堂を建立し、太子七生以前舎衛國にて一刀三體に刻し給ひし十一面觀自在菩薩の尊像を異國より迎へ奉り本尊に安置し給ふ云々(當寺縁起)
斯く天地神祇は勿論、仲哀天皇、忍熊王大仲姫の靈にいたるまで厚く弔はれ後世供養の為めとて荘厳なる寺舎までも建立なり、又御登山の時、紫雲の景象に因みて山號を「紫雲山」と名け給ふ、さて開山には其の頃、百済より渡来の惠便、惠聰こそ然るべしとて請ぜられぬ。

 

中山寺は約1400年の昔、仲哀天皇・大仲姫の縁の地に聖徳太子によって開かれた日本最初の観音霊場で西国33所観音霊場のうちの根本道場です。特に、当山本尊十一面観世音はインドの王后勝鬢夫人(しょうばんぶにん)を浄写したと言われる尊像(重要文化財)で古くより安産・求子の観音として厚い信仰を集めています。
また、日本で初めて法皇となった宇多天皇(867~931)は中山寺に別所院を建てて住まいとし、明治天皇のご出産の折りに安産の祈祷を受けたことで明治天皇勅願書となるなど、現在も皇室とのつながりの深い寺院です。

仏教という新しい文化をいち早く理解し取り入れた聖徳太子は惠便(えびん)を師と仰いでいました。それは、廃仏派から身を隠した惠便(えびん)に教えを請うために探し出し寺院を建立したほどでした。10人の話を同時に聞いても、すべてを聞き分けられるほどの明晰で優れた聖徳太子は、別名「豊聡耳(とよさとみみ)」という名前でも呼ばれますが、「耳」という字には、古代においては人の声だけではなく神の声を聞き分けるという意味が込められています。聖徳太子が、あらゆる能力に超人的に秀でていたことは良く知られていますが、神と通信できる霊的な能力を得ていたとも解釈できるのではないでしょうか。シャーマンとしての能力が、政治の世界にも大変重要な役割を果たしていた日本(倭)において、渡来僧が、シャーマンとしての能力を磨く技術を教えたとも考えられます。また、そうでなければ、国をまとめる責任を果たすために、正しい〝神の声〟を聴くことはできなかったのではないでしょうか。

また、「紫雲山中山寺記」には、結界を張り鬼門に卒塔婆を立てた作法について書き残されていますが、開山の言い伝えに残る仲哀天皇の妃である大仲姫と二人の皇子の御魂鎮め(怨霊調伏)であるこの場面には、先では「修験道」に継承されていく儀礼の形と、シャーマン的な要素を見ることができます。現代においては、「宗教」はあくまでも精神的なものになっていますが、古代神道しか存在しなかった日本に渡来した仏教は、現代の私たちが考えるよりも強い影響力で拡大していったと推測できるのです。そして、それは、間違いなく現代の仏教の形とは異なる、実践的な方法を伝えるものであったと思います。

霊山 求菩提山

豊前の修験山の中では、求菩提山、英彦山がその筆頭にあげられますが、英彦山六峰のひとつである求菩提山は修行場として独自の発達を遂げ、歴史のさまざまな場面で重要な役目を果たしてきました。
漆黒の闇に赤々と光る炎を噴出す山が、求菩提山の太古の姿です。人工の光など何も存在しない紀元前の時代、求菩提山は活火山であったといわれています。噴火し噴煙を上げる火山を太古の人々は畏怖の念をもって眺めていたのではないでしょうか。求菩提山の山頂からは、5~6世紀のものと推定される須恵器の小片が出土したため、この地域には、人の暮らしがあり、同じく山岳信仰も古墳時代にまでさかのぼるものと考えられています。

また、豊前に人々が住みつき文化圏が作られはじめても、西の方向に位置する求菩提山は、「西方浄土」につながる霊山として、多くの人々に信仰されてきました。また後の世になると、求菩提山一帯は、日本三大修験の山(吉野・熊野・英彦山)とは別個の修行場(山伏道場)として、一千余りの山荘となり多くの修行者が命懸けの日々を送りました。火山であるが故に優美で独特の風貌を持つ山の姿は、今も荘厳な雰囲気を醸し出して人々を惹き付けずにはおきません。

求菩提山は標高732m、福岡県豊前市の南部にあり、英彦山(1200m)から国東半島まで東西に連なる山陵のなかにあります。古くは岩嶽、蜘蛛手山、雲出山などと呼ばれていたようですが、現在の「求菩提山」という名前の由来は、開山の祖といわれる行善上人が護国寺を建立した際に仏語の「上求菩提 下化衆生」からつけられたという説が最も有力です。その他にも茶碗をふせた形に似ているから〝クボテン〟と呼び語源となったという説や、山上にたなびく五色の雲から〝くもて〟〝くぼて〟となったという説などの諸説がありますが、西方浄土を表す霊山を「上求菩提」から命名したとする説には、説得力を感じます。「上求菩提(じょうくぼだい) 下化衆生(げかしゅじょう)」とは、〝自分自身が菩提(仏教の深い真理を悟る)を求めるとともに、慈悲の心を持ち仏道によって衆生を教化再生する〟という大乗仏教の精神を表す言葉です。

創建の由来については、確かな記録が残され、大和朝廷に対して反乱を起こした南九州の隼人族を調伏するために祈祷を行なった行善に、養老7(720)年、鎮護国家の道場として伽藍建立が許され、開山に至ったと伝えられています。

また、希少な史料である『求菩提山縁起』によれば「継体二十(526)年猛ル覚魔ト仙というもの、此岳の金光を尋ねて山頂によじ登り、頗(すこぶ)る神明降の瑞相有るが故に、初めて大己貴命(おおなむちのみこと)の祠を建て是を祭る」とあります。「猛」とは強いということ、「覚魔」とは聖者、「ト仙」とは呪術者を意味します。猛覚魔ト仙(もうかくまぼくせん)は、犬ヶ岳の八匹の鬼を呪術によって退治し甕(かめ)に閉じ込めたという伝説をもつ強い霊力者ですが、その名前の響きからしても、中国や朝鮮半島からの渡来人であったと考えられます。

この時代の記録を、確実に裏付ける資料はありませんが、日本史で仏教伝来といわれる欽明7年(538)よりも、もっと古い時代から、豊前地方には大陸との交易があり、渡来人が、当時の先端技術(土木、農耕、機織、陶芸など)を持ち込んでいました。求菩提山が〝大陸からの渡来人〟によって開山されたという伝承をもつように、英彦山の開山は〝北魏の人〟であり、檜原山の開山は〝大陸の人〟といわれています。また、大宝2年(702)の記録によれば、大陸系の苗字を名のる人が9割以上を占めていたとされ、かつてこの地は、日本有数の渡来文化の窓口であったことが分かります。

求菩提山の修験の歴史が、正式な史料として残されているのは、保延年代(1135-1141)、天皇の命によって求菩提山に入山した頼厳の記録からです。頼厳の生没年は不明ですが、豊前国宇佐郡出身の天台僧で、宇佐八幡宮に代々仕えていた辛島氏の出身であるとされています。崇徳天皇病気の折には「玉躰加持」(天皇のお体に直接触れての治療)を行い、時には干天の法を修して雨を降らせたとされます。
頼厳は、壮年の頃、比叡山に登り、行専(1123年、天台座主に任ぜられる)の下で修行し、良忍、皇円の二師についても学びました。比叡山で頼厳が指示した良忍は、浄土宗の開祖・法然の師匠にもあたる人物で、永久5年(1117)阿弥陀仏からお告げを受けるという神秘的な体験をして、「融通念仏宗」を開いた高僧です。頼厳が、少なからず良忍の影響を受けていたであろうことは容易に想像できます。

融通念仏宗
偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」
傍依「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、口称の念仏で浄土に生まれると説く。

当時、人々の心を末法思想とともに阿弥陀信仰がとらえていました。末法思想とは、釈迦の没後、1500~2000年が経過すると、世は末法の時代となり、人心は乱れ、天変地異や腐敗政治などで破滅していくとする下降史観です。永承7年(1052)にその末法の時代が到来したと考えられ、人々は救いを求めて奈良時代にはすでにはじまっていたとされる阿弥陀信仰が広まっていたのです。
ときあたかも、藤原氏による摂関政治は行き詰まりを見せ、飢饉や水害などの災害や疫病の流行など、終末を実感させるような状態でした。そのために、人々は、臨終のときがきたら、必ず西方十万億度の彼方から阿弥陀如来が来迎し、極楽浄土へと導いてくれると信じ、そこに救いを求めたのです。
開山から修行道場へ

比叡山での長い修行を終えて故郷に帰ってきた頼厳の目に映ったのは、晩秋の宇佐の空を赤く染める夕日が求菩提山の真向こうに落ちてゆくさまであったと伝えられています。
頼厳が、求菩提山に登ったころは、すでに晩年にさしかかっていたと思われますが、頼厳は荒れ果てていた護国寺の堂社を修復し、多宝塔を建て、仏像を造立し、さらには山伏の出世の法則(修験道)を定め、自らも一千日の大行に挑んだと伝えられています。また、康治元年(1142)には、自身が大勧進僧となって、勢実・隆胤・幸賢・千慶・厳尊・隆鑒ら6人の高弟(求菩提山六哲)と共に銅版33枚(国宝)に法華経8巻と般若心経を刻んで、山中の普賢窟(胎蔵窟)に埋葬し供養しています。
ちなみに、この時期(保延~久安年間)、求菩提山では盛んに納経活動が行なわれました。こうして求菩提山に修験道が芽吹き、やがて「一山五百坊」といわれるほどの一大修験道場になっていくのです。この時、求菩提山復興に尽力した功績によって、頼厳は「中興の祖」といわれています。そして、求菩提山を再興し、やがてふるさとの宇佐へ帰っていった頼厳は、麻生谷にある稲積山麓で最後の時を過ごしました。稲積山のふもとには、頼厳の菩提寺である妙楽寺があり、その境内には貞和二年(1346)銘の頼厳の供養碑が建てられています。

全国で修験道が確立されたのは室町時代後期ですが、求菩提山が聖護院の末寺となったのは明応3年(1494)のことであり、そのきっかけとなったのは、熊野三山検校で聖護院門跡であった三宮道興法親王(さんのみやどうこうほうしんのう)(道興准后(どうこうじゅんこう))入山です。
求菩提山で道興法親王が詠まれたという和歌二種が残されています。

我も下化衆生の為分け入ば上求菩提と名告(ノル)山と那
御熊野の山の山守待得てや神の心の花を見すらむ

道興准后は、後花園天皇の関白を務めた近衛房嗣(このえふさつぐ)を父に持ち、長兄は右大臣という家柄に生まれた、当時の超一流の血筋を誇る貴人です。道興准后は、熊野の那智において修行を修め、さらに、全国に点在する熊野修行者の統括と、修験道の組織化のために全国をめぐりました。道興准后筆として有名な「廻国雑記(かいこくざっき)」は、道興准后が歩いた四国、関東、北陸、東北で詠まれた漢詩や歌による紀行文が残されています。この旅は、修験の組織化のための旅ではありましたが、当時の様子を知る貴重な文献資料としても、また優れた紀行文として、現在でも良く知られております。

神変大菩薩

神変大菩薩とは、白鳳時代の山岳修験者である役行者役小角(えんのぎょうじゃえんのおづぬ)が、江戸時代になって光格天皇から授けられた諡(おくりな)です。
「続日本紀」に文武天皇3年(699)、5月24日のこととして「丁丑、役君小角流于伊豆嶋、初小角住於葛木山、以呪術称、外従五位下韓国連広足師焉、後害其能、讒以妖惑、故配遠処」と記されています。これは、彼は大和葛城山に住み、呪術をよく使うので広く人々に知られていましたが、その能力を妬んだ弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)が「小角は妖言をもって人を惑わしている」と讒言(ざんげん)(告げ口)をしたために、朝廷は彼を遠隔の地・伊豆嶋に流罪にしたという意味です。この記録から、現在では役行者は、実在の人物であったとされています。

また、その他の伝説や記録によると、羽黒、月山、湯殿山、英彦山、阿蘇、霧島、高千穂に至るまで足跡を残した実在の修験者であったようですが、十七歳から寺に学び、葛城山での山林修行を経て、熊野や大峰の山々で修行を重ね、孔雀明王の呪法を修め、龍樹菩薩から法を授けられ、蔵王権現を体得したとされています。さまざまな奇跡に満ちた伝説の中には、鬼を自由に操り、空を飛び、呪術を自在に使い分けたというものもあり、超人的な法力と行力はさらに大きく高められ、全国各地の山岳寺院が役小角を開祖としています。

また、近世文書「求菩提山雑記」にも、「文武天皇御宇優婆塞六峰満行の後此山に入りて修験の行儀を示し給ふ」とあり、慶雲元年の役行者の求菩提入山を伝えています。その真相は定かではありませんが、求菩提山7合目の豊照神社(旧毘沙門堂)を過ぎたあたりには「神変大菩薩」の石碑が建ち、求菩提には役行者と前鬼・後鬼の像が伝えられています。

 

密教伝来と修験

仏教が伝来する以前の日本には、後に「古神道」と呼ばれることになる宗教観(思想・儀礼)が存在していました。それは、宗教という枠組みで捉える概念ではなく、生活そのものの中に当たり前のようにありました。言い換えれば、神と人が同じ世界に生きていた時代ということもできると思います。
そして、古代の人々は、山を神や祖霊のいる場所であると考え畏敬の念を抱きました。そのような感覚が、今も八百万の神に祈る日本人特有の意識にも深くつながっているように思います。一神教の思想とは根本的に異なる宇宙観が、日本には古来から存在し、それがそのまま自然との関わり方を決定してきたのです。

現在においても、無宗教であると言いながら、神社で宮参りをし、教会で結婚式をし、お寺で葬式…という日本人特有の価値観がありますが、太古の昔から民族性の特徴として元来持っている特徴と言えるのではないでしょうか。

仏教伝来は、日本の政(まつりごと)に多くの変化をもたらしましたが、日本古来の山岳信仰についても大きな影響を与えていくことになります。そしてさらに、8世紀後半、最澄と空海によって「密教」が日本に取り入れられ、真言密教と天台密教の礎が築かれたというのが歴史の定説です。そして、聖徳太子は、「和を以って貴しとせよ」で有名な十七条憲法を定め、仏教思想を原理とし、平和主義を国是とした国際国家を目指しました。その時代の最先端の技術や思想をもった渡来人たちが、天皇中心の官僚体制を目指し、仏教思想を基盤とする聖徳太子の政治に深く関わりながら日本国家設立に寄与していきました。

しかし、聖徳太子が推進した仏教も単純な経路で広まっていったのではありません。当初、大和政権は、公伝の百済仏教を信仰していましたが、日本の宗教に画期的な変化をもたらすこととして、百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、聖徳太子と太子の寵臣である秦河勝(はたのかわかつ)といわれます。秦一族が政治の中枢に強い影響を与えていたことは間違いないと思います。
また、豊前に残る初期の寺院(7~8世紀)や、豊国法師などの史実、また仏像様式の変化によって、百済仏教から新羅仏教への変化を見ることができます。これらのことから、豊前には、公式には聖徳太子によって日本にもたらされたとされている新羅仏教が、それ以前から伝来していたのではないかと考えることができます。

聖徳太子の重要なブレーンでもあった秦河勝(はたのかわかつ)は、秦氏出身の豪族です。秦氏は、日本に渡来して豊前に秦王国を築き、養蚕、機織、採鉱、鍛冶、鋳造などの最先端技術と道教的な思想を日本に持ち込んだ民族集団です。
「當山は人王三十一代 敏達天皇十二癸卯年時に聖徳太子十二歳の時初秋、天文博士を召し佛法流布永劫不滅の地を選ませ玉ひ播陽加古の邊りに山海隔てゝ廣漠の平地あり云々高麗の僧惠便法師を招請して三寶の軌則を調ふ、其頃百済より日羅來朝す云々」

聖徳太子が、摂津に中山寺を建立した際には、秦王国の豊国法師が説法を行ったという記録が『豊鐘善鳴録(ほうしょうぜんめいろく)』に残されています。

 

御陣御祈祷

求菩提山の中興の祖といわれる頼厳によってつくられた「銅板法華経」(現:国宝)は、母の胎内に見たてたとされる求菩提山八合目の普賢窟に埋納されていました。
求菩提山にある古文書に、「大内義興奉行人連署書状」と呼ばれるものがあり、「銅板法華経」とそれを納めた「銅筥」の発見にかかわる大永7年(1527)11月3日の記録が残されています。

為御陣御祈祷於当山去七月如法経修行候之処、経衆内頼尊大徳有夢想之告、法花経一部、銅板戸彫付同筥在之、於普賢岩屋掘出之条、為可被備上覧序品陀羅尼品二枚筥共上進之通令披露候、殊勝尤異于他之由被仰出候、仍彼妙典事被下遺候、如元被奉納他、今度出現之次第能々可被記置由候、恐々謹言
十一月三日
頼郷(花押)
正秀 御用

 

求菩提山衆徒御中
戦国時代、求菩提山では、大内氏の「御陣御祈祷」のための「如法経」(写経の修行)が行なわれていました。「銅板法華経」を発見したのは、御陣御祈祷をおこなっていた経衆の一人、坂口坊頼尊で、夢想のお告げによって山中の普賢窟(胎蔵窟)から見つけたとされています。
求菩提山 中興の祖である頼厳によって康治元年(1142)に勧進され、「法華経」8巻と「般若心経」が刻まれています。求菩提山は、それを大内義興に見せるべく、彼のもとに上進しました。

大内氏は中世の守護大名で、南北朝以後、山口を根拠に、周防・長門・石見三国の守護を務め、ことに西中国地方で大きな勢力を張りました。勘合貿易や挑戦貿易で巨大な富を得、京風文化を移し、学術工芸を奨励し、キリスト教の布教を許し、独特の山口文化を育みました。康暦2年(1380)頃には、大内義弘が新たに豊前の守護職に任命されたと考えられており、室町期の豊前国は大内氏の支配下に置かれることとなりました。
戦国時代になると義興は幕府の管領代となり、安芸、筑前をも加えた六ヵ国を手中におさめます。さらに義隆の時代には、備後国を加えた7ヵ国の守護職を兼ね、大内氏は西日本随一の勢力を誇りましたが、天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶晴賢に殺され、これに乗じた毛利元就の手によって、弘治3年(1557)に大内氏は滅亡したのです。

「銅板法華経」が発見された義興の時代は、大内氏にとってはまさに全盛期でした。そして、求菩提山が、大内氏の戦勝祈願のために写経をおこない、貴重な「銅板法華経」を上進するほど大内氏との良好な関係を維持することに努めていたということが分かります。求菩提山にとっても、戦国の世は、支配者との関係を維持していくことが、いかに重要であったかをうかがい知る場面ではないでしょうか。

さて、求菩提山麓から十数キロ下ったところに、常在山如法寺があります。かつて「求菩提への道は如法寺に始まる」といわれた、かつての求菩提六峰の一つで、北東の鬼門封じの寺として配されていました。仏教で写経のことを「如法経」ということに由来し、求菩提の写経堂の役割をしていました。頼厳の弟子、六哲のひとり円城房厳尊が住持をつとめ、「銅板法華経」は、この寺で刻まれたといわれています。
鬼門封じ、また写経の寺として求菩提山六峰のひとつであった如法寺と求菩提との間には、やがて亀裂が入り次第に対立関係が生じてくることになります。

鎌倉時代、建久6年(1195)、宇都宮氏が、下野国から地頭職として豊前国に入り、宇都宮一族から如法寺へ座主が送りこまれたことで、求菩提山と如法寺とは対立するようになり、宇都宮信房の三男である信政が「如法寺氏」を名乗るようになり、さらに戦国時代になると、如法寺はさながら宇都宮一族の砦のようになっていきます。

如法寺氏と求菩提山の間での所領争いがあったことが、文書に残されていますが、聖域である求菩提山領(30町歩=約9万坪)をも支配しようとした如法寺氏(宇都宮氏)との争論は、大永7年(1527)12月9日付の「大内義興奉行人連署書状」によって結論が出されることとなりました。それは、如法寺氏押領の土地を求菩提山に還補するという内容です。

定められた聖域の中で修行に明け暮れるだけでは、修行の山として生き残ることもままならない時代、求菩提山は、存続のための厳しい選択をいくつも迫られながら変化を余儀なくされていきます。そして、求菩提山は、次第に権力の庇護下に入り経済的にも衰退していくようになりました。

近世文書『求菩提山雑記』
「其後兵乱によりて山領過半隣主に押領卯せられしにより一山衰微して山法古格失ふこと多し」
宇都宮氏と山武士

平安時代に末法思想が流布し、怨霊や災害への対策として納経が流行しました。これを受けて、神聖な深山幽谷へ貴族たちが赴くようになり、その際の案内役として山伏集団との融和が図られるようになりました。山伏たちの持つ薬草の知識、呪術、武術、そして信仰による領民との太い絆が「山を抑えることは国を抑えること」という中央政権の思惑に利用されたのです。

初代宇都宮信房は、平家が壇ノ浦で滅んだ文治元年(1185)、九州へ落ち延びた平家の残党追討の命をうけて豊前に派遣されました。そして、信房は、貴海島(現喜界島)にひそんでいた平家の残党を討ったという功績によって、日向、豊前の所領を与えられ地頭職につきました。信房は、寺社建立などによって信仰の深さを表し、修験者や領民の抵抗を和らげようと努めました。また、求菩提山への対策としては、三男の信政(法名・生西)を如法寺の座主として山へ入れ、信政は如法寺氏を名乗るようになりました。これらの政策によって、宇都宮軍団の一翼を担う有力な戦力となった山伏たちは「山武士」と称する戦闘集団となります。そして、如法寺氏が、後に黒田孝高に滅ぼされる天正16年(1588)まで、求菩提山と領地争いや元寇の役などでの戦いを繰り返していったのです。

戦国時代には、求菩提山の山伏(山武士)も武器を持ち戦場に馳せ、山を護りました。戦国期には織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちがありましたが、英彦山も龍造氏や大友氏からしばしば攻撃されています。修行の世界に身を投じた人々の中には、時代の波に翻弄されて武器を手に生きることには抵抗を感じた人もいたに違いありません。
山伏たちは、戦闘集団という色合いを濃くしていきながら、その心は次第に山から離れていきました。その結果、度重なる戦乱に山は荒廃し、多くの山伏たちが山を捨てて下山していくことになりました。大友宗麟が豊前を支配していた時代、山の混乱を鎮静させようと山伏たちを戒めた下知状が残されています。

当山の事、往古以来守護使不入、
ことさら甲乙人ら、濫妨狼藉停止の処、
不慮の出来(しゅったい)ゆえ、衆徒中離山の段
注進、言語に絶し訖(おわんぬ)、自今以後悪逆の
族堅く制止を加えるべきの条、早々帰山し
行儀・法度を専らとし、国家安全・武運長久の
懇祈に励まれるべくの状、件の如し
永禄九年五月二十八日

左衛門督入道宗麟

(求菩提山は昔から守護不入である。特にどんな者も乱暴、狼藉を働くことは禁止である。ところが不慮の出来事があって衆徒が山を離れたとの報告があった。大変憂慮している。今後は悪いことをする者たちを厳しく制止するので、早く山に帰って行儀〔仏事の法則〕、法度を守り国家安全、武運長久の祈祷にはげまれるよう)

この下知状の内容から、大友氏と反大友氏との内紛が求菩提山の内部で発生していた可能性も感じられます。詳しい記録は残されておらず詳細は分かりませんが、戦国時代に次々と支配者が変わっていったという時代背景を考えても、山伏たちが意見を戦わせながら世を憂い、派閥化していったことは想像に難くありません。そして歴史は、この地にさらに政権争いや領土争いといった過酷な出来事を強いるようになっていきます。求菩提山の内部も、天下統一を果たした豊臣秀吉の政策によって大きく翻弄され、検地による年貢を強いる豊臣秀吉に対する反発と、一揆鎮圧の動きに巻き込まれていったのです。

豊臣秀吉の九州平定によって、宇都宮氏は四国への国替えを命じられますが、この命を拒絶した16代宇都宮鎮房は、天正15年(1587)、蜂起し、豊臣秀吉の臣下である黒田長政と戦うことになりました。このときに求菩提山の山伏らの活躍によって、黒田長政が命からがら落ちのびたと歴史は伝えています。
しかし、その後、黒田長政の父黒田官兵衛は一計を案じ、宇都宮鎮房へ和睦を申し入れます。和睦の条件は、宇都宮鎮房の娘千代姫を黒田官兵衛の息子である黒田長政の嫁に迎えるということでした。これを受け入れた宇都宮鎮房は、天正十六年正月、娘を連れて中津城に出向きますが父娘は城内にて斬殺されてしまうのです。次いで長政は、その足で家臣を皆殺しにし、宇都宮鎮房の城(城井谷城)を襲撃し、捕らえた女たちは中津の広津川原で磔にするという残忍な結末で勝利しました。

この時、家臣が襲われた中津の合元寺(ごうがんじ)では、襲撃の際に白壁に鮮血がほとばしり、その後何度塗りなおしても血がにじみ出たために、赤壁にしたのだという言い伝えが残されています。

様々な血なまぐさい事件を経ながら、求菩提山は宇都宮氏滅亡後、黒田孝高(くろだよしたか)(官兵衛)、細川忠興、小笠原忠真らによって治められていきます。それにともなって次第に修験の独自性は失われ、藩主の祈祷所的な性格が色濃くなった時代でした。

山ふかく分入る花のかつ散りて春の名残もけふの夕暮
円清(如水)

 

本地垂迹説

仏教の伝来によって、神仏の習合が進んだ時代、仏・菩薩が衆生救済のために、仮に姿を変えて、この世に現れたものを「権現」と呼ぶようになりました。これを、本地から来て仮に神明を示すという「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」といいます。
求菩提山では二つの権現を祀っています。(二所権現)
ひとつは、薬師如来を本地仏、大巳貴神を垂迹神とする「地主権現」です。さらにもうひとつは、十一面観音菩薩がかりに白山比咩(しらやまひめ)に姿を変えたとされる「白山権現」です。

この白山の開山は、越前の行者である泰澄(たいちょう)が、主峰の御前峰(ごぜんほう)に登拝したことから始まるとされますが、泰澄も新羅系の渡来人の家柄であり、さらに一説には、白山は新羅の白頭山(はくとうさん)に関連した山とも言われています。
泰澄は、養老元年(717)、36歳の時に、九頭竜川(くずりゅうがわ)(越前・福井県)をたどって白山に赴き、白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)を感得しました。伝説によれば、山頂の緑碧池から白山比咩(しらやまひめ)は九つの頭を持つ竜神の姿で現れ、さらに十一面観音菩薩に変身した姿が白山権現です。
泰澄にはじまる白山信仰は全国へと伝播し、やがて求菩提山へも伝えられることとなったといわれています。しかし、587年に豊国法師が用明天皇に呼ばれたときには、豊国にはすでに修行者が多く存在していたと考えられ、また、588年の中山寺開山の時には、十一面観音を御本尊として祀っているのですから、それより百年以上も経った717年以降に求菩提山に白山信仰が伝わったとするのにはあまり信憑性を感じることができません。

「熊野権現御垂迹縁起」(略して「熊野縁起」)では、彦山→石鉄(つち)山(伊予)→遊鶴羽(ゆづるは)岳(淡路)→切部(きりべ)(切目)山(紀伊)→神蔵(かみくら)山(熊野新宮)が、修験道が紀州の熊野に伝わる経路であると書かれています。また、「彦山流記」でも、修験道は仏教公伝以前に、まず彦山に入ったとされ、特別な地域であったことを伝えています。

 

擬死再生

修行によって「験(しるし)」を得、実践する人たちを修験者といいます。「抖擻行(山駈け)」を基本に、断食行、瀧行、水行、土中行、目隠行、夜間行、さらには千日行などさまざまな修行があります。一般的に、修験道は、自然発生的な山岳信仰に古代神道や密教、道教や陰陽道などの山林修行を取り入れて、山伏の教団組織ができた室町時代の独自の教理を成立させ、室町後期に確立されたといわれます。

山伏の修行とは、過去の自分を捨て去り、生まれ変わりを体験するために行われる擬死再生の修行です。禊をして死装束である白衣を身につけ、御護摩によって煩悩を焼き尽くすことで、行者は一度死んで生まれ変わります。生まれ変わりの表現として、行者達は、山道を通り鳥居をくぐって山を下る時には、「オー」という大声を上げます。これは、誕生する赤ん坊が、産道を通って大きな産声をあげ、母の胎内から外の世界に生まれ出る様子を表しているといわれます。

また、英彦山の峰入修行の記録によると、地獄や餓鬼の苦しみを経ながら仏としての悟りを得るという、生まれ変わりを表す十種の修行をおこなっていました。いったん象徴的に死んだ修行者が曼荼羅とされている山岳に入り、それを母の胎内になぞらえ、種々の苦行を積み重ねて「仏」として出生することが修行の目的であったのです。
日本の三大修験道場とは、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)、と吉野(大峰山)、そして英彦山を中心とした豊前の山々のことですが、その中でも求菩提山は特に荒行が多いことで知られておりました。

 

修行と組織

山伏社会は、師匠と弟子の関係で成り立ち、上下関係も厳格に決められていました。その長く苦しい修験の世界に、修験者たちは何を求めて身を投じたのでしょうか。そして、それほどまでに強く高い志で修行を重ねた人々も、時代の大きなうねりに巻き込まれてしまえば、抵抗などはできませんでした。そして、戦国の乱世や、廃仏毀釈、世界大戦などによって、修験者として一生を捧げる人々は存在しなくなったのです。

求菩提山の修験者たちの構成としては、座主が一山の長として治め、座主の下には「聖体坊」と呼ばれる10人の天台宗の僧侶、そしてその下に山伏集団がありました。山伏も、下臈、中臈、高臈、極臈の四段階に分かれていますが、極臈までの道は険しく厳しいものでした。
まず、修験者になる道のりは長く、新入り山伏は下谷にある北中坊道場で、住み込下男として坊の雑用をしなくてはなりませんでした。北中坊は別当職にあって座主代行の権限をもつところで、新入り山伏は、下男としてここで雑用をしながら政所(まつりどころ)に加行許可でもある総髪許可を申し出ます。真言宗では坊主頭ですが、天台宗では髪を肩まで伸ばす総髪となり、政所の許可が下りれば冥加銀を納めて、ようやく加行に入ることができます。

加行は37日間の間、毎日禊場で水行をして上宮に香花水を供える行です。850段の「鬼の鐙(あぶみ)」を上りながら「三宝荒大神、伊勢天照皇大神宮、熊野権現、白山両所大権現、大峰八大金剛童子、葛城七大和光童子」など、日本六十余州の神々に起居礼を繰り返す厳しい修行である。それが終わると山内の諸堂を礼拝しながら一巡します。
また、加行の間に北中坊で諸法儀を伝授され、日夜勤行をあげ37日間の満行に不動護摩を会得し、はじめて「本覚山伏」となることができるのです。
本覚山伏になり、冥加銀を添えて願書を提出し、許可が降りてようやく「峰入り」へ参加出来ることになります。

求菩提山の修行の中では、その形態を開山の祖である行善上人から伝えられたという春、夏、秋の三季の「峰入り」が最も大切なものでした。夏の峰入りについての資料は残されていませんが、春は75日、秋は35日と決められていました。
3月29日(旧2月29日)の松会(御田植祭)が終わると、山伏たちは75日の春峰に出かけます。春峰は求菩提山を北に下り国見山、日野出、岩丸、椎田の浜松福寺、角田、小野田、本庄の村々を廻り寒田村から一旦帰山。(出郡修験)。さらに山へ入り三ノ岳(1019m)、二ノ岳(1130m)、一ノ岳(1124m)、犬ヶ岳、長福寺、不動窟(宿)を巡る(山修験)というコースでした。
また、4月15日から7月15日までは、聖躰坊や十和尚を中心に「夏安居」と呼ばれる「静」の修行がありました。500巻あまりの法華経を転読したり、静かに写経をおこない、9月から10月にかけての「如法会」では、写経の供養をして旧暦の10月21日に経筒に入れて埋納しました。

そして秋峰は、夏安居が終わった後の8~9月に行なわれました。コースは春峰とは逆に、左から里をまわり、轟谷、両界山、犬ヶ岳、長福寺へ。そして廻路は鳥井畑、篠瀬、大河内、山内、緒方と廻ります。轟谷までが「出郡修験」で、それからは「山修験」です。
「山修験」は主に夜に行なわれ、暗く険しい山中を、窟から窟へ月明かりだけを頼りに移動し、礼拝・念仏を捧げ、食べるものは少量の米と水だけでした。新客山伏(新入り山伏)は、先輩山伏の分まで沢まで水汲みにいかなくてはなりません。そして宿となる窟のなかで、一晩中火を絶やさないようにする役目でもありました。そして、新客山伏が修行の途中で倒れたりすると、先輩山伏に頭から水をかけられ引きずりまわされたともいわれ、新入りの山伏には、ことさら厳しい修行であったようです。

春と秋の峰入りが終わると、次に本覚山伏は、全国の峰々を訪ねて社寺に大乗妙典を納める廻行修行の旅に出なければなりません。この旅について書かれた鉄心坊という修験者の「全国回峯工程図」という記録によると、宇佐神宮を出発して日本海側を羽黒山まで廻り、さらに奥州から太平洋側を西下して備後から四国へ、そして周防へ渡って筑前に戻り、帰山するまでに2年1ヵ月もの月日がかかったという記録もあり、長い修行の旅であることが分かっています。

そして、全国納経の旅から帰ると、役行者以来の血脈道場の証文(修了証書)をいただいて、血判で法義の秘密厳守を誓います。修行中に伝授される法義は秘伝のため、毎回証文を書いて飲み込まされ、修行が終わると秘密厳守の誓いとして抹香を飲み込まされていたといいます。そこで初めて祭事への参加が認められる「下臈」の末席に加えられることになりました。
下臈山伏の仕事は、主に雑務ですが、年を経て年中行事を務めるようになると「中臈」に昇進、さらに法徳を積んで「際」十人の位に進みます。「際」になると、山で最も大切な行事とされる「松会」を担当できるようになり、「盛一臈」と呼ばれました。
そして、この「際」の10年目の松会の座役を務めると一千日の入行資格ができ、一千日の大行を終えた者は「高臈」となり「頼願師」の資格を手にすることができました。
勅願師になると、天災や政変のとき、勅令による鎮護国家、玉躰安穏などを祈願する「頼宣護摩供」の法会を務めることができるようになります。

 

千日行

「千日行」に入る前の一年間は、女人断ち、また爪や髪を切ってはならないという決まりがありました。
千日行では、常香堂(常行堂)を基点にして毎日上宮の華水供を繰り返します。850段の鬼の鐙の両側に勧請した日本六十余州の石体一つひとつに神々の名前を唱えながら祈念し、上宮に着くと勤行に入ります。さらに山中の諸堂をめぐり常香堂に戻ってくると、燈明を絶やさず香をたき、読経を続けます。そして満行すると小倉藩奉行に挨拶し、頼厳入定の地である妙楽寺(宇佐)に報告のお札を納めて修了となります。
羽黒山での千日行は七年の内に千日ですが、求菩提山の一千日行は、連続千日という過酷な行でした。三年近くを山に籠もって過ごすという厳しい行を修めることが、極臈の条件であったのです。

そして、三年間、一日も休むことのない熾烈極まる修行(一千日行)が修了すると、「極臈」に昇格し、山伏としては一山の最高位である「長床」の座につきます。そして、勅令による鎮護国家、玉躰安穏を祈願する「勅願護摩供」の法会を務める「勅願師」の資格が与えられました。

この長床の数は一山の勢力により定められました。求菩提山では江戸期には長床は10人で、最高位を「長床第一和尚」と呼び、一番新しい長床は「長床第十和尚」と呼びました。
しかし、高臈になっても、病気や死亡で欠員が出ないかぎり、長床に昇格することはできません。年齢構成の記録によれば、千日行入行者のほとんどが60歳以上、長床は77歳から91歳で、平均では84歳と長命で、修験者の精神力と体力の強靭さを物語っています。
求菩提山においては、毎年、松会の盛一臈をつとめたものがひとり入行し、満行をむかえたものがひとり修了し、常時3人が千日行に入っていたのです。

求菩提山奥の院から下った平な場所には、かつて常行堂(常香堂)があり、「千日行」の行者はこの場所を軸として厳しい修行を行っていました。中には、行者を見守る不動明王立像が安置されており、平安時代から灯明の火を守り一年中香を絶やすことがありませんでした。求菩提山の行者は、行の間は髪も髭も爪も伸ばしたままであったといいます。千日の満行を見据えた三人の男たちが、ここで勤行を上げ続けました。
近年の発掘調査によると、この「常行堂(常香堂)」の三方には立派な菩提樹が植えられ、裏には閼伽(あか)水の井戸があったことが分かっています。菩提樹は、樹下で釈尊が悟りを啓いたことで知られる尊い樹木ですが、外来の樹木ですので人の手によって植えられたことは間違いありません。千日行などには菩提樹の葉が供物として使われました。早朝の菩提樹の下で行者たちはここで水垢離をとり上宮を目指したのです。

現在は求菩提資料館に収められているという不動明王は、常行堂(常香堂)の香うずまく中、行者たちの修行三昧の日々を、厳しくも温かく見守っておられたのです。
数多くの行者たちの千日行を見据えてきた不動明王は、煤(すす)で全身が黒く光り、その見開いた右目で天を睨み、左目は地を見据え、(天地眼)全身で忿怒を表しています。
右手の剣は破邪顕正(無明・愚痴をなくし、本来の働きを出す)、左の羂索(けんさく)は、利他行(進むべき道へ引っ張る)を表し、愚かな心に負けぬように励ましているというお姿です。

 

求菩提六峰

護国寺を中心にした求菩提六峰は、寺や堂を御座所として、大己貴神と白山比女のお子の六王子を六つの峰の六方位に配した小白山を祀り、求菩提を遥拝できるようになっていました。西方-飯盛山権現・東光寺、北方-鬼ヶ州権現・鬼塚、北東-常在山権現・如法寺、東方-松尾山権現・医王寺、東南-両界山権現・経読寺、南方-宝勝山権現・長福寺の六峰は、近世になって飯盛は玉置権現・吉祥寺、鬼ヶ州は釈迦岳権現に移りました。

当初、六峰には頼厳の高弟たちが送り込まれました。現在知られているのが、飯盛山東光寺に勢實、そして常在山如法寺には尊厳が配されたといわれています。
また、求菩提六峰は四方浄土を想定して構成され、東の松尾山は薬師浄土、西の飯盛山は阿弥陀浄土、南の宝勝山は釈迦浄土、北の鬼塚は弥勒浄土を表しています。そして、北東の常在山は鬼門を封じ、東南の両界山は金剛界と胎蔵山の接点に位置し、経読堂は峰入りの時の経読場ともいわれています。

六方とは方位を表し、それらの山々を修行で巡ることを「六峰満行」といい、その山伏は「六方法師」と呼ばれました。歌舞伎のなかで、役者が手を振りあげて足を高く踏み鳴らす身振りを「六方を踏む」といいますが、その語源は、この「六峰満行」に起因しています。

修験道に見られる方位信仰の由来は、中国の道教、陰陽道などですが、「十干十二支」や「陰陽五行」などの哲学と複雑に関係しながら体系付けられてきました。
たとえば、夕日に染まる山々と求菩提山の向う(西)に沈む太陽から、頼厳は、西方浄土を見出しました。そして常在山如法寺は鬼門封じのための寺ですが、平安京での比叡山延暦寺、江戸における上野寛永寺や神田明神がこれにあたります。

また、中国の陰陽道では世界の東西南北には、それぞれ神獣(方位神)がいるとされ、人々を悪霊から守っているとされていました。北「玄武」-高山、南「朱雀」-沢畔、東「青龍」-流水、西「白虎」-大道が「四神相応の地」とされ、繁栄を呼ぶ最良の土地であるとされたのです。

求菩提山には、その東に「龍門」の名前が残っています。また「亀卜」という山伏の占いに使われる亀は、北方向の泥淵(椎田町)で捕獲したものに限定されたといいます。北の守護である玄武が、亀と蛇との合体した姿で描かれていることを考えれば、求菩提もまた「四神相応の地」を選んでいたことが分かります。

〈 求菩提六峰と四至(求菩提山所領の境界)、七口(求菩提山への入り口)の概要 〉

六峰 西-飯盛山権現東光寺(のちに玉置権現吉祥寺)
北-鬼ヶ州権現鬼塚(のちに釈迦岳権現)
北東-常在山権現如法寺
東-松尾山権現医王寺

東南-両界山権現・経読寺

南-宝勝山権現長福寺

四至 東面-斗部火の浦(のちに弁財天岩)
西面-鉾立(のちに寒田)
南面-犬ヶ岳(のちに原宿の尾)
北面-国見山石塔
七口 鳥井畑八丁口(東の大鳥井)
上八丁口(もと下宮の場所)
産家口(求菩提山公共駐車場の登り口)
世須岳口(世須岳から)
国見口(椎田の小原の谷から)
犬ヶ岳口(犬ヶ岳の方から護摩場跡に入る道)
寒田口(西の大鳥居)

 

廃仏毀釈

明治元年(1868)の「神仏分離令(神仏判然令)」と、それにともなう廃仏毀釈によって護国寺は廃寺となり、かわって国玉神社が建立され、山号の「求菩提山」も仏教に由来する名前であるからという理由で岩獄山に変わりました。このとき求菩提修験道は存亡の危機にさらされましたが、山伏たちは神道に宗旨替えをすることによってその場を凌ぎました。
しかし、実際には、「神職」と名前を変えた修験者は、檀家廻りを続け護符を売ったりお祓いの祈祷をしたりと、相変わらずの山伏の活動を続けていきました。後に完全に山伏、修験者、修験僧という活動に終止符が打たれることになったのは、明治5年(1872) に出された「修験道の儀今被廃止」によります。
この発布によって、座主以下山伏の末端まで坊名を捨て、改名還俗をしなければならなくなり、さらに明治七年に「祈祷禁止令」が出たことで決定的な打撃を受けることになりました。その結果、修験道の存続そのものが不可能となり、大半の山伏は山を下りることを余儀なくされたのです。
数々の禁止令に合わせて、信仰の対象であった求菩提山の仏像も、焼かれたり捨てられたりしました。破壊されたり、多宝塔や小さな小屋に押し込んで隠された仏像は数知れなかったといいます。現在も残る「首なし地蔵」は、廃仏毀釈、すなわち仏教排斥運動によって何者かによって首をはねられてしまった石仏ですが、実際に手を下した者の中にはそれまで信仰していた山伏もいたというほどですから、集団の心の荒廃と、日本中の仏教文化が崩壊した嵐の凄さを物語っています。

廃仏毀釈の嵐によって、求菩提山でも次々に山伏たちは山を下りるようになりました。山に籠もって修行に明け暮れるという生活が世間に認められなくなり、近代化に連れて良くも悪くも生活の基盤を外部に求めるようになったことも、御山から行者たちが離れていった要因ではないでしょうか。かつては、霊山で暮らす麓の娘たちの憧れでもあった山伏とその妻たちも、近代化によって次第に生活に困窮し、生きていくためには背に腹はかえられませんでした。
しかしこの時の山伏の身の振り方は様々で、山に留まり養蚕を始める者、傘の張替え、売薬、会社勤めに転じる者など、長い年月の修行から一転した人生を送りました。このとき、修験の道を辞め俗世間に降りた山伏たちは、家財道具を一銭、二銭で売り払って出て行ったといわれます。

最後の座主は豊後立石の城主の九男で、文久元年(1861)に養子として入山した延寿王院俊政(えんじゅおういんとしまさ)です。「修験道の儀今被廃止」によって、座主の生活も貧窮し、着物や刀を抵当に借金をして生活し、あげくは宝物まで売ったという哀しい末路でした。

求菩提山は、修験という独特な文化を伝承してきた山です。この場所で多くの人々が、悟りを求めて修行を重ねてきました。しかし、戦国時代の戦いや、領地争い、廃仏毀釈など、時代の荒波から逃れることはできませんでした。験徳を得るために己と向き合うことが修験であるとしても、体力も知力も並外れた屈強な男性の組織が、時の権力者にとって脅威でなかったはずはありません。特に外敵に対して防御しなくてはならない戦国時代や明治維新の時代に、国の情勢に左右されずに修験という生き方を貫くことは容易ではなかったはずです。求菩提山は今、静寂のなかにありますが、ここにはかつて、確かに生涯をかけた修験者たちの血の滲むような修行の日々がありました。しかし、最終的には、廃仏毀釈で破壊的な打撃を受け、ついには山を降りざるをえない状態になりました。

今は静かな佇まいをみせる求菩提山には、紀元前の昔から連綿と続く歴史があり、そして、生涯をかけて「験(しるし)」を得ようとした男たちの厳しい修行の日々がありました。一人前の山伏と認められてから、2年以上もかけての霊山巡りは現代では想像もできない厳しさであり、「常香堂」には、常時3名の千日行者が修行をおこなっていたというだけでも求菩提山がいかに水準が高く厳格な修験道場であったかを知ることができます。

日本にとって重要な場面で、求菩提山の修験者たちが、その時代の権力へ影響を及ぼし続けたことは、修行者たちの特別な力(験力)がいかに強力なものであったかを物語っています。そして、一般的な日本史の流れとは全く別のルートを通って、求菩提山には、頼厳によって修験が形作られるよりも古い時代にはすでに多くの人が住み、文化が栄え、修行の形もあったのではないでしょうか。またそうでなければ、用明天皇に呼ばれて宮中に参内した頃に、「豊国法師」という霊能力を持つ集団が存在した事実とは矛盾してしまいます。倭から日本へと生まれかわろうとしている時代に日本が必要としていたのは、現代のような政治的指導者だけではなく、神とつながり、神の声を聞き、神託をおろす霊能者やシャーマンといった特殊な能力者であったのではないでしょうか。

日本に「宗教」という概念が生まれたのは、「仏教」が伝来したために、それまでの神との繋がりを「神道」と名付けて区別したことに由来しています。この時代のいきさつにも諸説あるでしょうが、少なくとも、それまでの宗教観とは全く異なる実践的な教義と古代の様々な「技」が日本の中枢の人々に受け入れられ浸透していったことは間違いないと思います。

それは、古代神道といわれる呪術の形式とはことなる儀礼の遺跡から推測することが可能です。古代の遺跡に残された呪術的な痕跡の中には、これまで現在の私たちが知ることのなかった技術を見ることができます。その中でも筆頭に上げられるのは、世界最大の規模を持つ「仁徳天皇陵」に、堀や埴輪などによって施された古代の「結界」であると考えます。「結界」とは穢れから身を護り、聖と邪を区切る目に見えない世界との境界線を示すものです。一日二千人の労働力で、15年以上かかったといわれる大規模な国家的建造にあたって、当時の最高の技術が結集され、呪術的にも護りを固める必要がありました。

求菩提山の修験者たちは古代からの呪術的な技術を伝承し、修験道の形の中で伝えてきました。たとえば、修験の作法である採燈護摩(柴燈護摩)の灰は、屋敷や田畑の周りに撒いたり、病気のときに水に溶かして飲むなど、神仏の力の宿るものとされましたが、それは、民間に広まった「結界」のひとつの形です。神社の注連縄や鳥居、門、石などの区切りも、単に形式的なものではなく、「場」の境界線を示しています。日本が産声をあげようとした時代の仏教には、まだこのような現実味のある力強い技術が含まれていたと考えることができるでしょう。そして、それは、全く消え去ってしまったのではなく、名前や方法を少しずつ変えながらも、21世紀の現代につながってきているのです。

当院では、星供養会節分祭、盂蘭盆会、採燈護摩供、瀧行、断食籠行などを求菩提山の歴史で培われてきた修験の伝統を継承して続けてまいりましたが、このような行事や作法のなかには、先人達の遺した古代の技術が遺産としてたたみ込まれています。

紀元前の昔から人は海を渡り、水平線のはるか彼方の世界へと夢を求めて旅立ち、海を越えて人と文化の交流がなされてきました。
21世紀の現代、かつてのように荒行自体を生業とする修行者はいなくなりました。しかし、たとえ求菩提山に静寂が訪れたとしても、求菩提山は今も畏怖の念を抱かせる威厳をもった霊山であり、師匠から弟子へと連綿と伝えられた求菩提山独特の文化や技術も、形を変え伝えられています。それらの伝承の中に凝縮された貴重な文化遺産を、大切に次の世代に伝えていく責任を果たして参りたいと考えます。

豊国法師

日本が、まさにひとつの国家として産声をあげようとしたころ、余命を悟った天皇が、内裏にひとりの僧を招き入れました。日本書紀に「豊国法師」とされるこの僧は、特別な呪術の技をもった当時では超一級の豊前の僧の集団のことをさしているといわれています。豊前とは、現在の福岡県北東部から大分県北部までの一帯をさします。現在の大分県宇佐市の宇佐八幡神宮を中心として栄えていた渡来人たちの文化圏が、大陸との交流を経て発展を遂げていました。一説には、この地域は秦一族が多く移り住んだ「秦王国」とも称されます。渡来文化との強い絆が、豪族の力関係を左右していた歴史的背景をふまえると、豊国法師が参内したことは、天皇自らが仏教という渡来文化を積極的に受け入れようとした点で特出した事件です。

この時、内裏に招き入れられた僧の個人名も、また用明天皇にどのようなことを命ぜられたのかも記録には残されておりません。病気平癒の祈祷であったか、悪霊退散の呪術であったか、または、天皇の身体に直接触れてお加持をする「玉躰加持」であったかもしれません。また、次の天皇を決めるときには宇佐八幡神宮の御神託を受けていたという天皇家の伝統があったように、余命を悟った用明天皇が、次の天皇について憂慮されていた可能性も否定できないでしょう。
豊国法師参内に積極的であった聖徳太子が、用明天皇の子どもであったことを考えたとしても、仏教が伝来したばかりの日本において、ひとりの僧が内裏に招かれたこと自体が特殊中の特殊な待遇です。だからこそ、日本書紀をはじめ多くの文献に記録され、またそのことが、豊国法師の力とこの事件の大きさを物語っているのではないでしょうか。

求菩提山修験道

今は静かな佇まいをみせる求菩提山には、紀元前の昔から連綿と続く歴史があり、そして、生涯をかけて「験(しるし)」を得ようとした男たちの厳しい修行の日々がありました。一人前の山伏と認められてから、2年以上もかけての霊山巡りは現代では想像もできない厳しさであり、「常香堂(じょうこうどう)」には、常時3名の千日行者が修行をおこなっていたというだけでも求菩提山がいかに水準が高く厳格な修験道場であったかを知ることができます。

日本にとって重要な場面で、求菩提山の修験者たちが、その時代の権力へ影響を及ぼし続けたことは、修行者たちの特別な力(験力)がいかに強力なものであったかを物語っています。そして、一般的な日本史の流れとは全く別のルートを通って、求菩提山には、頼厳によって修験が形作られるよりも古い時代にはすでに多くの人が住み、文化が栄え、修行の形もあったのではないでしょうか。またそうでなければ、用明天皇に呼ばれて宮中に参内した頃に、「豊国法師」という霊能力を持つ集団が存在した事実とは矛盾してしまいます。倭から日本へと生まれかわろうとしている時代に日本が必要としていたのは、現代のような政治的指導者だけではなく、神とつながり、神の声を聞き、神託をおろす霊能者やシャーマンといった特殊な能力者であったのではないでしょうか。

日本に「宗教」という概念が生まれたのは、「仏教」が伝来したために、それまでの神との繋がりを「神道」と名付けて区別したことに由来しています。この時代のいきさつにも諸説あるでしょうが、少なくとも、それまでの宗教観とは全く異なる実践的な教義と古代の様々な「技」が日本の中枢の人々に受け入れられ浸透していったことは間違いないと思います。

それは、古代神道といわれる呪術の形式とはことなる儀礼の遺跡から推測することが可能です。古代の遺跡に残された呪術的な痕跡の中には、これまで現在の私たちが知ることのなかった技術を見ることができます。その中でも筆頭に上げられるのは、世界最大の規模を持つ「仁徳天皇陵」に、堀や埴輪などによって施された古代の〝結界〟であると考えます。〝結界〟とは穢れから身を護り、聖と邪を区切る目に見えない世界との境界線を示すものです。一日二千人の労働力で、15年以上かかったといわれる大規模な国家的建造にあたって、当時の最高の技術が結集され、呪術的にも護りを固める必要がありました。

次世代へ伝える責任

求菩提山の修験者たちは古代からの呪術的な技術を伝承し、修験道の形の中で伝えてきました。たとえば、修験の作法である採燈護摩(柴燈護摩)の灰は、屋敷や田畑の周りに撒いたり、病気のときに水に溶かして飲むなど、神仏の力の宿るものとされましたが、それは、民間に広まった「結界」のひとつの形です。神社の注連縄や鳥居、門、石などの区切りも、単に形式的なものではなく、「場」の境界線を示しています。日本が産声をあげようとした時代の仏教には、まだこのような現実味のある力強い技術が含まれていたと考えることができるでしょう。そして、それは、全く消え去ってしまったのではなく、名前や方法を少しずつ変えながらも、21世紀の現代につながってきているのです。

当院では、星供養会節分祭、盂蘭盆会、採燈護摩、滝行、五日間断食籠行などを求菩提山の歴史で培われてきた修験の伝統を継承して続けてまいりましたが、このような行事や作法のなかには、先人達の遺した古代の技術が遺産としてたたみ込まれています。

紀元前の昔から人は海を渡り、水平線のはるか彼方の世界へと夢を求めて旅立ち、海を越えて人と文化の交流がなされてきました。
21世紀の現代、かつてのように荒行自体を生業とする修行者はいなくなりました。しかし、たとえ求菩提山に静寂が訪れたとしても、求菩提山は今も畏怖の念を抱かせる威厳をもった霊山であり、師匠から弟子へと連綿と伝えられた求菩提山独特の文化や技術も、形を変え伝えられています。それらの伝承の中に凝縮された貴重な文化遺産を、大切に次の世代に伝えていく責任を果たして参りたいと考えます。

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